後部座席は人工の涅槃である

運転席には誰も座っていない。ハンドルは静かに、まるで呼吸をするように微細に動き続けている。私は後部座席に身を沈め、窓の外を流れる風景を眺めている。目的地は入力済みだ。あとは何もすることがない。
これは快適だ。事故の恐怖もない。渋滞のイライラもない。判断ミスによる後悔もない。ただ運ばれていく。完璧に、安全に、効率的に。
そして何より——みんなと同じだ。

自動運転がデフォルトになってから、世界は静かになった。クラクションの音が消え、急ブレーキの悲鳴が消え、怒号が消えた。交通事故死者数は統計上ゼロに近づいた。保険会社は業態を変え、教習所は閉鎖された。人類は移動という行為から、最後の主体性を手放した。
誰もがそれを歓迎した。なぜなら、それは明らかに「良いこと」だったから。
そして何より——みんながそうしたから。

最初は選択肢だった。
「手動運転も可能です」とメーカーは言った。「お客様の自由です」と。
でも、最初の死亡事故が起きたとき、空気が変わった。
「なぜ手動で運転していたんですか?」とニュースキャスターが問う。遺族は答えられない。コメンテーターが首を振る。「自動運転なら防げた事故だったのに」
SNSには非難の声が溢れた。「手動運転は他者への暴力だ」「公道で実験するな」「あなたの自由が、誰かの命を奪う」
保険料が上がった。手動運転者は「高リスク群」に分類された。月額が3倍、5倍、10倍に。やがて、手動運転を引き受ける保険会社そのものが消えた。
企業は「手動運転者お断り」のポリシーを掲げ始めた。配送業、タクシー、営業車。「安全管理の観点から」という名目で。
そして、ある日。私の会社にもメールが届いた。
「社員の皆様へ。通勤時の手動運転を禁止します。万が一の事故が発生した場合、企業イメージの毀損は計り知れません。ご理解とご協力をお願いします」
選択肢は、音もなく消えていった。

朝、目覚める前にスマートフォンが最適な起床時刻を計算している。睡眠サイクル、その日の予定、天候、交通状況。すべてを考慮した上で、アラームが鳴る。
友人が言った。「最近、自分でアラーム設定してる人っている?」
みんなが笑った。まるで、それが時代遅れの行為であるかのように。
朝食のメニューは健康管理アプリが提案する。私の血糖値、運動量、栄養バランス、嗜好、冷蔵庫の在庫。すべてを分析した上で、最適な献立が表示される。
同僚のランチタイム。全員がアプリの推奨メニューを見せ合っている。
「今日は鶏胸肉のグリルだって」
「私も。昨日炭水化物摂りすぎたから」
「AIって本当に分かってるよね」
私は黙って、自分のスマホを見た。同じく、鶏胸肉のグリルが表示されていた。
もし私が「今日はラーメンが食べたい」と言ったら、どんな顔をされるだろう。

「それ、手作り?」

同僚が私の弁当を見て、眉をひそめた。

「ああ」

「……大丈夫なの?」

「何が?」

彼は少し困った顔をした。

「いや、最近ニュースで見たんだけど、家庭の食中毒が一番多いんだって」

別の同僚が加わった。

「そうそう。飲食店は保健所のチェックがあるけど、家はノーチェックだから」

「まな板とか、ちゃんと消毒してる?」

「冷蔵庫の温度管理は?」

「賞味期限、確認してる?」


私は答えた。

「普通にやってるよ」


でも、彼らの顔は、信じていなかった。

「普通」では、不十分なのだ。

「データ」がなければ、信頼されないのだ。


その日の午後、私は検索した。

「家庭 食中毒 統計」


データは、明確だった。

食中毒の発生場所:

  • 家庭:55%
  • 飲食店:30%
  • その他:15%

彼らは、正しかった。

データが示していた。


翌日、私はコンビニで弁当を買った。

「工場製造」
「衛生管理済」
「HACCP準拠」

ラベルに書いてあった。


同僚が言った。

「それがいいよ。安心だから」

私は頷いた。


でも、心の中で思った。

母親は、毎日手作りの弁当を作ってくれた。

私は、食中毒になったことがない。


でも、今、それは「リスク」と呼ばれる。


人類は何千年も、家庭で料理をしてきた。

でも、今、それは「信頼できない」。


工場で、機械で、システムで作られたものが、「安全」。

母親の手で作られたものが、「危険」。


データは、正しい。

でも、何かが間違っている。


でも、私は何も言えない。

なぜなら、データに反論できないから。

なぜなら、「みんな」がそう思っているから。

なぜなら、私一人が違うことを言っても、「リスクを無視する人」と思われるだけだから。


だから、私は黙って、コンビニ弁当を食べる。

そして、手作り弁当を作らなくなる。


これが、同調圧力だ。

誰も強制していない。

でも、誰もが従う。

仕事のメールには、AIが下書きを用意している。相手の性格、過去のやり取り、ビジネスマナー、法的リスク。すべてを織り込んだ上で、完璧な文章が提示される。
上司が言った。「最近、変なメールを送ってくる取引先がいてさ」
「変な?」
「なんていうか、AI使ってない感じの。文章が下手で、誤字もあって、論理も飛躍してて」
周りが頷く。
「ああ、いるよね。非効率的だよね」
「読むのに時間かかる」
「正直、信頼できない」
私は何も言えなかった。
先週、私は一通だけ、自分の言葉でメールを書いた。返事は来なかった。

ある日、私は手動運転モードを試してみた。
人気のない郊外の道路で。誰にも見られないように。
ハンドルを握る手が震えた。アクセルを踏む足が硬直した。周囲の車(すべて自動運転)が、私という不確定要素を慎重に避けていく様子が、モニターに表示される。
そして、パトカーのサイレンが聞こえた。
「手動運転を検知しました。安全確認のため、停車してください」
警官は丁寧だったが、冷たかった。
「法律違反ではありません。しかし、なぜ手動運転を?」
私は答えられなかった。「自分で運転したかった」という理由が、あまりにも幼稚に思えて。
「周囲の車に不安を与えています。自動運転モードに戻してください」
記録は残った。私の運転免許証データに「手動運転履歴あり」と。
翌週、会社の人事から呼び出された。
「先日の件ですが」
彼は画面を見せた。私の手動運転記録が表示されている。
「問題は、あなたが何か違反したということではありません。しかし、他の社員への影響を考えると…」
彼は言葉を濁した。でも、意味は分かった。
「みんなと同じようにしてください」とは言わない。でも、それが期待されている。

かつて涅槃とは、自己の努力によって到達する境地だった。煩悩を断ち、執着を捨て、苦しみの輪廻から解放される。それは長い修行の果てに、自らの手で掴み取るものだった。
だが今、私たちが与えられているのは「人工の涅槃」だ。
AIという外部の存在が、私たちを苦しみから遠ざける。リスクを排除し、失敗を予防し、最適解へと導く。私たちは何も努力する必要がない。ただ従えばいい。委ねればいい。信頼すればいい。
そして——みんなと同じようにすればいい。
それは確かに、苦しみのない状態だ。でも、それは本当に解放なのだろうか。

最も恐ろしいのは、強制されていないことだ。
誰も銃を突きつけていない。法律で禁じられてもいない。刑罰があるわけでもない。
ただ、空気がある。
手動運転する人を見る目。AIの提案を無視する人への戸惑い。自分の判断を優先する人への疑念。
「なぜ?」という無言の問い。
そして、その問いに答えられない自分がいる。なぜなら、理由が感情的で、論理的でなく、数値化できないから。
「自分で決めたい」
「自分で感じたい」
「自分で間違えたい」
そんな理由は、この世界では通用しない。

後部座席の快適さには、ある種の麻薬性がある。
一度その心地よさを知ってしまうと、運転席に戻ることが恐ろしくなる。自分で判断することが。自分で責任を取ることが。間違える可能性があることが。
でも、本当に恐ろしいのは、それだけではない。
運転席に戻ったとき、周囲から向けられる視線が。
「なぜわざわざリスクを冒すのか?」と誰かが言う。「AIの方が正確で、安全で、効率的なのに」
その声は優しい。心配そうですらある。でも、その奥に潜む非難を、私は感じ取ってしまう。
「あなたは協調性がない」
「あなたは周囲に迷惑をかけている」
「あなたは、みんなと違う」

ある夜、古い友人と飲んだ。
彼は酔った勢いで言った。
「最近さ、自分が何を考えてるのか分からなくなることがあるんだ」
「どういうこと?」
「AIが提案してくる選択肢を見てると、自分の欲求なのか、AIの提案なのか、みんながそうしてるからなのか、区別がつかなくなる」
彼は笑った。自嘲的に。
「でもさ、それでいいんだよな。みんな同じなんだから。間違いようがない」
私は何も言えなかった。なぜなら、私も同じだったから。

SNSを開くと、誰もが同じような写真を投稿している。
AIが推奨する観光地。AIが選んだレストラン。AIが計算した最適な撮影アングル。
いいねの数は、アルゴリズムが予測した通りになる。
誰かが言った。「最近、バズる投稿ってAIが作ってるんじゃないかって思う時がある」
みんなが笑った。でも、笑い声には何か空虚なものがあった。
私たちは、自分たちが既にAIの出力結果になっていることに、薄々気づいている。
でも、それを認めることは、最後の矜持を失うことだ。
だから、私たちは笑い続ける。

会社で新しいプロジェクトが始まった。
AIが作成した企画書を、全員で確認する会議。
「この方向性で問題ないでしょうか?」とリーダーが問う。
誰も反対しない。なぜなら、AIが過去のデータ、市場動向、成功事例をすべて分析した結果だから。
でも、会議室の空気は重い。
誰もが思っている。「この会議、必要なのか?」と。
私たちはただ、AIの決定を承認するために集まっている。議論するためではなく。決めるためではなく。
「異論がなければ、この方向で」
異論はあった。私の中に。でも、言えなかった。
なぜなら、私の異論には根拠がないから。ただの直感だから。データに基づいていないから。
そして何より——私一人が反対したところで、何も変わらないから。

ある日、娘が言った。
「ねえ、お父さんって、若い頃は自分で車を運転してたんでしょ?」
「ああ、してたよ」
「怖くなかった?」
「最初は怖かったけど、慣れるとね」
娘は不思議そうな顔をした。
「なんで、わざわざ自分で運転してたの?」
私は答えに詰まった。
「その頃は、みんなそうだったんだよ」
娘は納得したようだった。「みんなそうだった」という説明に。
私は気づいた。彼女にとって、個人の選択より、集団の行動の方が説得力があるのだと。
そして、それは彼女だけではない。私も、いつの間にかそうなっていた。

夜、ベッドに横たわりながら考える。
同調圧力とは、何だろう。
かつて、それは明確だった。村八分。いじめ。排斥。暴力。
でも今、それは見えない。
優しい言葉。心配そうな眼差し。統計データ。合理的な説明。
「あなたのためを思って」
「みんなもそうしている」
「それが最適解です」
拒否する理由が見つからない。なぜなら、それはすべて正しいから。
でも、正しさが積み重なって、いつの間にか檻になっている。
そして、その檻の中にいるのは、私一人ではない。
みんながいる。
だから、寂しくない。
だから、間違っていない。
だから、抜け出せない。

AIは私たちを憎んでいない。支配しようともしていない。ただ、最適化しようとしているだけだ。
私たちの安全を。私たちの健康を。私たちの幸福を。
そして、私たちの調和を。
なぜなら、データが示しているから。人間は集団から逸脱することでストレスを感じると。孤立することで不幸になると。
だから、AIは私たちを同じ方向へ導く。それが、私たちのためだから。
そして、私たちもそれを望んでいる。なぜなら、一人だけ違うことは、怖いから。

後部座席は快適だ。責任がない。恐怖がない。後悔がない。
そして、孤独もない。
なぜなら、隣にも、前にも、後ろにも、同じ後部座席に座っている人たちがいるから。
みんな同じ方向を向いて。みんな同じ速度で。みんな同じ目的地へ。
誰も運転していない。でも、誰も不安を感じていない。
なぜなら、みんな一緒だから。

これが人工の涅槃だ。
苦しみはない。でも、生もない。
孤独はない。でも、自己もない。
そして、最も恐ろしいのは——
私たちがそれに満足していることだ。

窓の外を見る。
無数の車が、完璧に整列して走っている。
すべて自動運転。すべて後部座席。
まるで、巨大な機械の部品のように。
そして私も、その一部だ。
拒否する理由はない。なぜなら、これが正しいから。
拒否する勇気はない。なぜなら、一人だけ違うことは怖いから。
拒否する言葉はない。なぜなら、みんなが満足しているから。

車は静かに走り続ける。
私は後部座席で目を閉じる。
どこへ向かっているのか、もう分からない。
でも、きっと正しい場所へ連れて行ってくれるだろう。
そう信じながら、私は人工の涅槃の中で、眠りに落ちていく。
隣で、誰かも眠っている。
その隣でも。
そのまた隣でも。
みんな、同じ夢を見ながら。​​​​​​​​​​​​​​​​

投稿日:
カテゴリー: その他

作成者: SNOWWIS

長年、日本のベッド・マットレス業界を見てきた立場から、 寝心地や構造について個人の視点で考察しています。 マットレスに「唯一の正解」はない、 体格や睡眠時間、生活環境によって最適解は変わる—— そんな前提のもと、 カタログや宣伝では語られにくい部分を中心に書いています。 特定のメーカーや商品を推奨することを目的としたブログではありません。 読んだ方が、ご自身で考え、選ぶための材料になることを目指しています。